分からないという選択のない時代

ひと世代ほど上の先輩の言葉。

 

先輩の時代は、すべてには答えがあり、

その答えにたどり着くことが正解だったそうな。

過不足なく、設定された共通の唯一の回答にたどり着く教育。

 

先日、会話の中で、「わからない」が現状の回答だという場面があった。

「わからない」という単語を明確に最終回答に示したことが新鮮だと感じたとのこと。

 

先輩の時代はわからないという回答は選択としてなかったらしい。

または許されなかったのかもしれない。

 

例えば、物理学的な実験で、欲しい結果が得られなかったとする。

となると、その結果が得られなかったという結果が答えになる。

(仮定した結果は導かれない、という答え)

失敗したら、失敗したという事実が答えになる。

正解の対義語が不正解ではないということ。

成功の対義語が失敗ではないということ。

 

こういった状況に触れる機会があると、

わからないという回答も選択としてはあってもいいものに感じませんか?

 

ただ、その後に先輩が締めくくった言葉がとても印象的だった。

 

「わからないという選択もある柔軟な時代でいいなとも思うけど

 わからないままではダメだよね。」

 

おっしゃる通り。

本当にそうだと思った。

ほんの一通過地点、現時点ではわからないが回答でもいいと思う。

ただその先にある何らかの終着点は目指し続けて、できればたどり着きたい。

 

とても良いメッセージをいただいたなと。

違いのある他者との交流は宝物ですね。