やり残したことを開いて、丁寧にしまう

先日、昨年お会いした際になんとなくわだかまりが残ったままになった方に

新年のご挨拶をお送りしました。

 

お会いする機会がめっきりなくなってしまったので

その後、お話する機会もなく、連絡する勇気も出ず、

怒涛の日々にかまかけて、そっと横に置いてしまっておりました。

 

そのわだかまりというのも、自分の受け取り方の問題なのはわかっているのですが

どうしたものかと思考を巡らせに巡らせ、、、

結果として伝えたいと思ったことは感謝でした。

 

この方はたくさんの気づきをくださり

この方を通して、新たな自分を発見したり

諦めていた自身の可能性を見つけることができたり、

ポジティブな感情をくれたことに間違いはない人です。

 

個人的に前回のしまい方がどうも落ち着かなかったがために

良くない記憶のシーツにくるまれた過去になってしまったような感覚で。

それももちろん事実ではあるのですがもう一度問いかけてみました。

 

本当にそうか?それだけか?

 

その不快なシーツで覆われたかのように見えた中身はあたたかいものでした。

最後がどうであれ、ありがたかった事実はちゃんと残っています。

それなのに、現象としていついているのはわだかまり

この不要な居心地の悪さは捨ててしまおうと思ったわけです。

 

そこで新年というタイミング。

めでたさしかなく、すべて心機一転、気持ちを新たにできそうな新年に。

気負い少なくさらっと目にしていただけそうなタイミングの力をお借りして。

 

文面自体はなんの差しさわりもない新年のご挨拶ではありますが、

言葉にして、そっと感謝の気持ちは乗せられたのではないかなと思います。

 

まだお返事は返ってきていませんし

返ってこないかもしれませんし

もはや、読んでさえいただけないかもしれません。

 

言ってしまえば、こちらの一方的な自己満足でしかなく

こちらから連絡せずとも、現状何も変わりませんし、

先方はそもそも何も気にさえなっていないかもしれません。

 

ですが、居心地の悪さだけが残っている状態を

手放す方法がこれだったんですよね。

 

話は変わりますが、海外の医療系ドラマで

たまたま同じバスの事故にあった人たちの家族がそれぞれ病院に駆けつけ、

同じ境遇の家族同士で励ましあうというシーンがありました。

たまたま家族が同じ試練に見舞われたというだけの初対面の人々で。

 

そこで、いろいろとつながるものがありました。

その時だけでもいい。

双方が支えあわなくてもいい。

一方方向でもいい。

誰かが誰かの力になれることってあると思うんですよね。

誰のそれを借りるかは本人が決めたらいいことですが、

その「誰か」が少なくとも「居る」ということで

「ない」の絶望は味わわなくてもいい。

 

必要な時に必要な手助けがあれば、立ち上がれる。

そのきっかけが人なのか、環境なのか、モノなのか、時間なのか、、、

選択はたくさんありますが、

人は自ら動くことができるし、いろいろな可能性を秘めている。

 

それを見た気がしました。

 

事故だなんて大きな出来事でなくとも

日常の小さな出来事だったとしても、打ちのめされそうなことがあったりします。

そんなとき、誰かが誰かの支えになることはできる。

その誰かには誰もがなれる。

 

話は戻りますが、自分にとって今回ご挨拶をお送りした方は

その「誰か」だったんですよね。

ご本人は何も感じていらっしゃらないでしょうが、本当にありがたかった。

 

そして、今直接感謝を伝えられる方にはしっかりと伝えておきたいし

もし、必要ならば力になれる存在でありたいなと。

 

今回ご挨拶をお送りできたことで、自分の中では、

やり残していたことを丁寧な形でしまえて、

また出せるものになったと感じています。

 

先方にとっても、一連のことが軽やかなものになっていたら良いなと願うばかりです。

 

ありがとうが巡るような世の中だったらいいなぁ。