「自分不器用ですから」
ちょっとしぶくていい男、みたいなイメージのあるこの言葉。
慣れていないからとか苦手だからでまとめられる話と、
ただ自分本位な行動の理由付け(=言い訳)として使っている場合とでは
意味が全く違ってくる。
高倉健はうまく言ったもんだ。
上手くいかないことの理由として使われる言葉だけど
できないのか、しないのか、はたまた
その背景には、誰を思って起こした行動なのか等々。
複数の論点があり、導かれる結論も見え方が色々ある。
正解があるものでもなさそうだけど、考えてみた。
先日たまたま、
この「自分不器用ですから」というシーンに出くわす機会があった。
説明不足で相手に混乱を生んだ人が、自分やってやった感を出しつつ、
結果、自分が良く見えるように風潮するというひどい有様だった。
何かは感じ取ったらしく、そこで発した一言
「自分、不器用なんで。」
事情を知っている側からしたら
とんだ茶番だったな、とさらっと流していたことだったけど、
実際裏ではちょっとめんどくさいことになっていた模様。
事をうまく処理できないという意味では、たしかに不器用、大正解であるが
やることやってうまくできないこともある愛され不器用ではなく
自分の保身に走って相手のことを慮ることができない自己中不器用
結果的にうまくできなかったとしても
そこに至るまでの思考や方法、実際やったこと、向かう姿勢、
過程の部分に大きな違いがある。
今回の件については、不器用というよりは、思慮が足りない。
コミュニケーション内の親切さと誠実さとが欠けている。
ただそれだけの話だった。
当事者は、今度その人との間で何か都合の悪いこと起こったら
全部、”自分不器用なんで”返し~スペシャルエディション~
をお楽しみいただくわと言っていたけど、
(毎回スペシャルエディションにする気なあたり本気を感じる。笑)
そう思わせるほどには、不愉快な「自分不器用なんで」があるのだなと。
おそらく本人は相手をこんなにも不快にさせていることに気づいていない。
なんなら、不器用だと言っておけばすべて許されると思っている可能性さえある。
ある意味幸せなのかもしれないけど。
この一件をみて、
もしかしたら、自分ではしょうがないと思っていることでも、
実はしょうがないことなのではなく、
都合よく解釈している可能性があること、また、
あまりに頑なな空気を出していると、周りからの声掛けがもらえないということも
見せてもらった。
いろんな視点で物事をとらえられたら良いけど、
自分でたくさんの視点を持つということは簡単なことではないし、
それよりも、いろんな人から視点をもらって
素直に受け入れられる環境を自ら作って行く方が、
可能性の広がりも感じるし、良さそうだな。